

( 2005年12月見学 )
百瀬 康吉氏肖像
百瀬氏は甲府市内で薬種業を営むかたわら、趣味として水晶収集を行っていたが
王水(塩酸3と硝酸1の混合液)による水晶の美麗法に成功してから、一層水晶収集に
熱中するようになった。
その後、巨智部博士の助言により、飾り物としての収集だけでなく、学術参考品としての
収集を心掛けるようになり、学術的に価値の高い、多くの水晶を収集した。
百瀬氏は収集に当たって、優秀な水晶の見分け方は大変困難であることことから、多くの
人が欲しがる水晶、専門家が目をつけた水晶を手元に置くことし、そのため親しい専門家と
疎遠になってしまったこともあったが、その方針を断固として貫いた。
また、百瀬氏は収集に際して、水晶およびその加工品を次の4つに分類していた。
@ 結晶が完全なもので、人工の手が加わらないもの
A 偉大なもの
B 各産地の特色を充分発揮しているもの
C 素人の愛玩用となるもの
そして、分類@〜Bに相当する山梨県産の貴重な水晶を山梨県内に留め、しかも個人の
秘蔵品とするのではなく、広く学術的に利用してもらうとともに、散逸を防ぐため、大正9年
(1920年)に当時の山梨県師範学校に寄贈した。
百瀬康吉氏と水晶館の歩みを一覧表にまとめてみると、次の通りである。
| 年 号 (西 暦) | 記 事 | 明治20年 (1887年)頃 | 東京薬学専門学校で、下山、丹波両博士に師事して 薬学を専攻。帰郷後、韮崎市で薬種商を営む |
明治27年 (1894年) | 甲府市柳町に転居し、薬種商を営むかたわら鉱物鑑定もした 水晶の付着物除去方法を考え、清浄な水晶に興味を持ち、私財を投じて 水晶類の収集を行う |
明治37年 (1904年) | 多数集めた水晶や鉱物を始末するため、10年あまり 鉱物販売の営業を行った。 その後、30年以上水晶の収集と保存を続け、その間多くの鉱物学者や 岩石学者と親交を深め、助言を求めて優秀な水晶類を手元に残すことが できた |
明治末年 (1900年)頃 | 山梨師範学校の能勢頼俊教師の要望で、教授用標本として 水晶類20数種類を寄附 |
大正3年 (1914年) | 上記標本は火災で焼失 | 大正8年 (1919年) | 石塚末吉氏(博物学者)の勧めもあり、水晶類46点の寄附願いが 山梨師範学校にだされた |
大正9年 (1920年) |
水晶類を山梨師範学校に寄贈。正式には、大正9年1月21日付で 寄附願いが許可された。 当時、山梨師範学校は県立であったため、県有財産となり、師範学校が 保管することになった |
昭和2年 (1927年) | 不燃性鉄筋コンクリート造りの「水晶館」建設
|
昭和9年 (1934年) | 山梨師範学校創立60周年事業の一環として、水晶寄贈記念碑を建設 (この記念碑は、戦後の混乱の中で破損し、現在は破片が残っている)
|
昭和24年 (1949年) | 国立山梨大学発足。水晶類標本は学芸学部が保管することになった | 昭和31年 (1956年) | 寄贈された水晶類は、県から国に移管され、国有財産となる | 昭和37年 (1962年) | 石川文一氏から水晶装身具31点寄贈 | 平成17年 (2005年) | 水晶館が老朽化したため、事務局棟広報プラザ内に水晶展示室として 展示することになった。 小田切康文氏(百瀬氏の親族)より水晶印材107点の寄託を受ける |
@ 大正9年(1920年) 百瀬氏によって寄贈された46点
A 昭和37年(1962年) 石川文一氏から寄贈された水晶装身具31点
B 平成17年(2005年) 小田切康文氏より寄贈された水晶印材107点
これらの内、@、Aは「水晶館」にもともとあったと考えられます。
3.1 百瀬 康吉氏の寄贈品
百瀬氏が、大正9年(1920年)に寄贈した46点について、「目録」が残されているので
これによって、寄贈標本の概要を知ることができる。
| 番号 | 標 本 名 | 特記事項 | 1 | 水晶単柱 高さ3尺3寸(97cm) 直径最大1尺(30cm)
| 増富八幡山産 脇水鉄五郎博士によって 地質学雑誌に発表(1918年) 重量77.5kg 柱面は磨かれている |
2 | 水晶々簇 高さ1尺7寸(51cm) 幅1尺3寸(39cm) | 晶簇とは群晶のこと | 3 | 水晶々簇 高さ6寸7分(20cm) 幅1尺2寸(36cm) | 4 | 水晶々簇 高さ9寸(27cm) 幅9寸5分(29cm) | 5 | 水晶々簇 高さ1尺9寸(57cm) 幅1尺7寸(51cm) | 6 | 水晶々簇 高さ1尺1寸(33cm) 幅1尺7寸(51cm) | 7 | 水晶々簇 | 8 | 煙水晶大形 | 9 | 黒水晶大形 | 10 | 傾軸式双晶々簇 |
次の標本がNo10〜12の何れか、不明
|
11 | 傾軸式双晶々簇 | 12 | 傾軸式双晶々簇 | 13 | 水晶々簇 | 14 | 水晶々簇 | 15 | 草入水晶
| 雄鷹山(甲府市黒平向山鉱山)産 | 16 | 紫水晶々簇 | 17 | 紫水晶々簇 | 18 | 紫水晶々簇 | 19 | 水晶々簇 重石含有のもの | 20 | 水晶々簇 重石含有のもの | 21 | 水晶2柱対立 | 22 | 水晶2柱対立分岐せるもの | 23 | 水晶2柱対立双生せるもの | 24 | 屋根形水晶 | 25 | 屋根形水晶異なる光沢あるもの | 26 | 水晶々簇 | 27 | 傾軸式双晶7體 | 28 | 石灰重石結晶 | 石灰重石とは灰重石のこと | 29 | ライン鉱
| ライン鉱とは 灰重石後の鉄重石のこと |
30 | 重石類1組26體 | 31 | 燐灰石大晶
| 32 | 長石類1組30體 | 33 | 天河石2體 | 34 | ペグマタイト 高さ2尺8寸(84cm) 幅2尺余(60cm) | 35 | 石灰華 | 36 | 水晶大花瓶 | 37 | 水晶硯(電気石入り) | 38 | 水入り水晶々簇
| 佐渡相川産 | 39 | 黄玉石(トパーズ)
| 甲府市黒平産 | 40 | 雨畑硯 青石 | 41 | 雨畑硯 赤石 | 42 | 雨畑硯 黒石 | 43 | 水晶異形□22體 | 44 | 鉱物1組7體 | 45 | 水晶□□□ | 46 | 富士熔岩2體 |
3.2 石川 文一氏氏の寄贈品
展示室の中央のショーケースの中にある水晶宝飾品が石川氏の寄贈品だと思われる。
櫛(くし)、簪(かんざし)など女性の身を飾ったものから、老眼鏡など実用的なものまで
水晶の幅広い用途がうかがわれます。
水晶でできた、櫛の歯が、1つも欠けることなく仕上げられ、作られて100年以上も
無傷で伝えられているのは、驚きと共に、大切にしたという先人の思いが伝わって
きます。
水晶製の櫛
3.3 小田切 康文氏寄託品
百瀬氏の子孫・小田切康文氏が寄託した水晶印材107点は、すでにテレビの「何でも
鑑定団」に紹介されたものです。
これらが、目近に見られるとは、思ってもいなかっただけに、感激します。

展示全体 展示品の一部
印材展示コーナー
(2) 湯沼鉱泉の社長とYさん、そして私の3人が惹かれた標本があった。母岩付き日本式双晶
(傾軸式双晶々簇)なので、百瀬氏の寄贈品のNo10〜12のいずれかと思われるが
産地名が記載されていない。
明らかに、乙女鉱山のものとは違う。3人の結論は、『長野県川上村川端下産』で
あった。(身贔屓とお笑いください)
日本式双晶(奥の双晶は川端下産?)
(3) また、子持ち水晶には、川端下産との表示があり、三石勝五郎著の『詩伝・保科五無斎』の
「子持ち水晶」の章に、次のような記述があったのを思い出し、感慨を深くした。
『 某先生が臼田小学校おられた時のことである
五無斎は「ニギリギン式教授法」を講演したが、その前に標本室に入って1つ1つ
熟覧した。
ある標本箱の前に来ると佇んだままそこを離れず、ジッと硝子(ガラス)ごしに
水晶のいくつかに眼を注いだ。そのうちに蓋を取り、子持水晶を見付けて字母観音の
如く、頬ずるやら、いつくしみ、ついにこれをわがポケットに入れられたのである。
はて、このまま持ち去られては大変、案内の責任は自分にあるから、もしや・・・・・と
冷汗かいて一言いい出そうとすると、五無斎はやっと夢からさめた如く
「 おれは、このままうっかり持って行く所だった」とポケットから子持水晶を出して
元の通り箱に納めたという。』
子持ち水晶(長野県川上村川端下産)